待つ事

待つ事と、信じること。
この2つの言葉は同義だと、思う。

私が10代の終わりの頃まで、
携帯電話はまだなく、

連絡手段は、一家に一台の固定電話が
主流だった。

待ち合わせの場所で
約束した誰かを待つ時、

緊急の連絡手段もないので、

例え約束の時間を1、2時間過ぎても、
待っていた。待つことができた。

これが恋人や大切な人なら、
それこそ、何時間でも待てた。

待ち時間は、苦痛ではなく、
きつと来てくれると信じていたし、
また、お互いに信頼していたからこそ、
待つことができた。

ゆえに、待ち時間は幸福な時間となった。

テクノロジーの進歩により、
携帯電話が一般的となった今、
メールや電話で、常に誰かと繋がっていて、
心は安定している、と思いたいのだが、
待てなくなっている自分自身に気がつく。

そう、待てないのだ。

メールの機能が進歩し、
メールを送信した相手がメールを見たのか否かも
すぐにわかる。

既読スルーされると不安に陥る人も多いはずだ。

常に誰かと繋がっていたい、
繋がっていられるという
強い希望と夢の実現を目指して
スマホは普及してきた、はずだった。

しかし、現実は、
常に誰かと繋がっていないと不安になり、
メールの返信を待てない。

待つ、という行為は、
長い人生の中で頻出する。

子供の成長を、焦ることなく待てるのか。
今、辛い時期にいる時、
将来に希望を託して辛い現実を耐え忍び、
待てるのか。

待つと言う行為は、
相手に決定権を与えるという優しさ。

待つことの優しさを
待ってもらうことの優しさを
いま、誰もが、求めてる。

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